名前の由来
古事記や日本書紀に登場する蛤は、日本古来の食材の一つ。語源は浜辺に生息し、形が栗の実に似ているため、浜の栗で「はまぐり」と名付けられたのが定説とされる。しかし山の栗ではなく、古語で石を意味するクリから来ているなど、諸説あるのも神秘的。
むかしむかし…
蛤には神話や昔話が尽きない。
鎌倉時代から江戸時代にかけての絵本の一節に「蛤の草紙」がある。主人公は貧しいながらも釣りをして母を養っていたが、ある日、舟の上から大きな蛤を釣り上げた。すると、貝殻の中から美しい娘が現れた。半ば強引に妻にしてほしいと求められ、母の勧めもあって二人は夫婦に。妻は、はた織りで美しい布を織り、夫はそれを高値で売った。一生暮らせるだけの大金を手にして家に戻ったところ妻の姿はなかったという。実のところ妻は観音様の化身であり、親孝行の功徳を説いた話。
次の物語も面白い。江戸時代に活躍した浮世絵師、鳥山石燕(とりやませきえん)は数々の妖怪画で知られている。石燕は大蛤を蜃(しん)と呼び、暖かく穏やかな日に蜃があくびをすると、海中で気を吐いて楼閣を生み出すという神話を描いている。現代において蜃気楼は、気候と光の屈折によるものと解明されているが、昔はこの不思議な現象を妖怪の仕業としているのが日本らしい。
桃の節句
源氏物語に登場する貝合わせは平安時代の貴族の遊戯。貝殻の内側二枚に一対の絵や和歌が描かれており、対となる一枚を探す。言わば神経衰弱のようなもの。二枚貝の蛤は同じ殻同士でないと合わないため夫婦円満の象徴とされた。また、ひな祭りでは女の子の健康と成長を願って食す。蛤は祝いに欠かせない食材であり、婚礼の席や上巳の節句で親しまれてきた。
季節が待ち遠しい春の味覚。焼き蛤、潮汁、酒蒸しの他にも手の込んだ料理がある。蛤料理の魅力をミシュランガイド掲載店と共に紹介したい。
山荘京大和(一つ星/日本料理/京都)
熟練の料理長は、季節と日本文化を尊ぶ。蛤と胡麻豆腐の椀物は、桑名の蛤に滑らかな胡麻豆腐を合わせた。木の芽、海藻をあしらい、桜の花弁を象った独活は春を先取り。朱塗の金蒔絵は貝合わせの文様。料理も器も古典の趣に品格を感じる。
天婦羅 みやしろ(一つ星/天ぷら/東京)
蛤は春の到来を感じさせる天種。店主は鹿島灘や九十九里浜の大振りな蛤を好む。肉厚で旨味のある蛤を揚げ、仕上げに醤油で風味付けるといった工夫がなされている。半分はそのまま味わい、残りは海苔で巻くのも興味深い。日本料理の経験から新たな味を生み出す。
幽玄(一つ星/日本料理/大阪)
三船桂佑氏が供する煮物椀。古くから夫婦和合の象徴とされる蛤を椀種に。真薯はつなぎを控え、素材感を印象に残す。梅を模った人参と大根、うぐいす菜、木の芽が春の訪れを物語る。真昆布と湧き水のだしに、蛤だしを合わせた吸い地も上品。黒漆の椀は唐草松葉を描いた輪島塗。繁栄を表す唐草と、長寿を意味する松葉の文様は縁起が良い。
新門前 米村(二つ星/イノベーティブ/京都)
変幻自在な料理人が米村昌泰氏の美学。インスピレーションから生み出される料理は個性に富む。冬トリュフと蛤のグラタンは、名残のトリュフと、走りの蛤による出会い物。貝のエキスとベシャメルソースの味わいは、洋食屋の帆立のコキールのようで懐かしい。器はヴィンテージのマイセン、染付の文様は東洋に影響を受けている。この一品は和なのか洋なのか。和洋の文化が行き交うのが米村流。
晴山(二つ星/日本料理/東京)
独自性を探求する山本晴彦氏の一品。蛤とキャビアの冷たいうどんにモダンな感性が生きる。稲庭うどんに蛤だしと胡麻油が絡む。種とする蛤は肉厚、塩味はキャビアと豪華な仕立て。和洋折衷は料理にとどまらない。ガラスのボウルはアール・デコ時代のラリック作コキーユ。貝殻のデザインと蛤の料理は、新旧の貝合わせといえる。
蛤は太古から日本人に親しまれ、数々の逸話を歴史に残している。縄文時代の貝塚から最も出土する貝が蛤という。春一番の季節も間もなく。春霞に包まれ蛤に舌鼓を打つ。これも夢か幻か・・・
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