「おはようございます。今日はよろしくお願いします」 朝8時の東京都中央卸売市場、通称「豊洲市場」。早朝の取引はひと段落したものの、ターレがせわしなく行き交う中、待ち合わせ場所に現れたのは、ミシュラン一つ星「鮨 まつうら」の松浦修氏。
この業界に入ったきっかけは意外なところから。プロスケートボーダーを夢見て上京し、練習時間を確保するため働き始めたのが魚屋だった。おろした魚の行く末に興味が沸き、すしの世界へ飛び込んだ。都内のすし屋で修業を重ね、2019年当初、「食べて飲んで2万円。それでいて3万円の価値を」というコンセプトを掲げ、白金に店を構えた。滅多に行けない特別な店ではなく、日常の中に江戸前すしがある暮らし。そんな生活を提供できたら、という思いは開店から3年経った今でも変わらない。
松浦氏は毎朝豊洲市場で仕入れて店に向かうのが日課。暑かろうが、寒かろうが、雨の日も風の日も、バイクに乗って豊洲へ行くのには理由があった。
日本最大の魚市場「豊洲市場」
2021年の水産物の年間取引量は、33万トン*。取引金額は3.8兆円*にものぼる。世界最大級の市場といえ、日本全国からトップクラスの水産物が集まる。
2018年に築地から豊洲へ移転したのは記憶に新しいが、市場の歴史は江戸時代である1644年頃まで遡る。場所は徳川幕府が江戸の中心地として定めた「日本橋」。漁師たちが江戸幕府に納めた魚の残りを日本橋で売ったのが始まりだった。
その後、1923年の東京大震災で壊滅状態となり、仮設期間を経て1935年に東京都中央卸市場の主要として築地市場が開かれた。そこから日本の台所を担ってきたといっても過言ではない築地市場。老朽化、手狭になったこと、また時代に合わせた環境配慮型施設が求められるなど、様々な理由から83年の歴史に終止符を打ち、ここ豊洲で新たな物語が始まった。
仲買人との絆
今では市場に通わなくても、電話注文、配達など、多様な方法で魚を仕入れることができる。その流れはコロナ禍で加速の一途をたどった。そのような状況下でも松浦氏が毎朝豊洲に通うのは、仲買人とのつながりや関係を大切に思う気持ちがあるからだ。
買付け先の多くは修業時代から通っている店。すし職人を目指して励んでいる頃、ある仲買から「穴子をおろす練習に使って」と穴子を頂き、また他の仲買は、勉強にと競りに連れていってくれたこともある。自身の知らないことや困っていることがあれば、仲買から別の仲買を紹介してくれたりと、横のつながりで助けてもらったこともたくさんあるという。
「18歳くらいの時からお付き合いさせてもらっている仲買さんもいます。僕より年上の方ばかりなので可愛いがってもらっています。修業先の師匠とはまた違う意味での師匠でもありますね。みなさん、いい人ばっかりなんです」と微笑む。
小肌がすし種の“小肌”に生まれ変わるまで
朝8時頃に豊洲市場へ到着する松浦氏。最近の買付人は7時半~8時くらいに行く人が多いという。理由はほとんどが予約注文だから。仲買人は売れ残りの心配がなく、買付人は早く行かなくても好みの魚を確保しておける。時代に合わせて多様化する豊洲市場の今が垣間見られた。市場にいるのは40分ほど。その後すぐにバイクにまたがり白金へと急ぐ。
店に着くと早速仕込みに取り掛かる。一人で板場を取り仕切る松浦氏は、いかに効率的に動けるかが勝負。まずは小肌の水洗いから。うろこ、頭、内臓を取り除くその様は目にも留まらぬ速さ。手際よく手当てしていく様は惚れ惚れしてしまう。店内には数分置きにタイマーが鳴り響く。その度に、煮ている干瓢の仕上がりを確認、電話が鳴れば対応したりと忙しいながらも効率よく作業を進める。
水洗いのあとは、開いて塩を振る。かなりの量を使うが塩辛くなりすぎないように、この後に塩抜きの工程をする。
「僕はあまり酸っぱいのは好きじゃないので」という松浦氏の小肌はやさしい味。修業先で習得した方法を自分好みに調整し、自身のすしの理想形を求めたという。酢は相性を考え、酢飯と同じ酢を使い、漬ける時間は短め。それぞれの個体を見極め、脂ののりによって、漬ける時間や寝かす時間を調整している。
店内に数回のタイマー音が鳴り響く。「ちょうどいい時間ですね」と松浦氏。酢の中から小肌をざるに並べていく。その後、小肌の大きさに応じて2~3日寝かす。大きいものだと4~5日寝かすこともあるそう。丁寧に仕込まれた種は、最後に酢飯と合わさり、客の前へと姿を見せる。
「僕ができるエールのかたち」
すしを握る上で一番大切にしていることは、“気持ちを込めること”。自身の握るすしが、明日への活力につながってほしいと気持ちを込めて握る。魚を獲る漁師、運送するトラックの運転手、市場の仲買人、彼らが繋ぐリレーのアンカーが料理人。すし職人の松浦氏が握る一貫は、すべての人の想いを背負っている。