料理の道へ
宮崎県都城市出身の脇元氏。病気がちだった祖母のため、食卓にはいつも手作り味噌や自宅の畑で採れた野菜が並んでいた。「今思い返すとルーツかもしれませんね」と懐かしそうに語る。その影響で栄養士を目指し、上京。机上では和食は身体によいと学ぶが、野菜を薬品で洗う調理場や、鮮度が落ちた食材を使う場面を目の当たりにし、思い描いていた和食とのギャップを肌で感じた。
「ちゃんとした日本料理を学びたい」。そう思い立つや否や、感銘を受けた料理本の著者へその思いをしたため、手紙を送った。料理の道へと足を踏み入れた瞬間である。
朝から晩まで料理と向き合う時
脇元氏が師匠と信頼する、神田裕行氏との出会いは赤坂にあった日本料理店。当時、脇元氏は駆け出しとして、神田氏は料理長だったことから、雲の上の存在だったという。その後、元麻布に「かんだ」を開業することを知り、弟子入りを志願した。朝から晩まで仕事の日々。板場に性別は関係なく、体力がものをいう世界。毎日がむしゃらに吸収した。
かんだでは、調理技術はもちろんのこと、食材の選び方や扱い方など、料理の全てを教わった。例えば「空花」 で扱う鰹節はかんだと同じ業者から仕入れ、だしの引き方は教えを忠実に守っているという。「かんだで学んだことは私の財産です。神田さんには足を向けて寝られませんね」と微笑みながらも、本心のような表情。
「オフィスワーカーのような生活がしてみたい」
そんな生活を7年ほど続けてきた時、ふと、会社勤めのような生活がしてみたいと頭をよぎった。
転職先は、食品や生活雑貨の販売も行う企業。和食店のメニュー開発を指揮することになった。自ら望んだ週休2日制で、オフィスに出社する日々。しかしそう長くは続かなかった。自身が考案したメニューが現場でどう提供されているのか気になるあまり、気づいたら毎日調理場に立っていたのだ。長い修業経験で、料理人の性質が染みついたのか、知らぬ間に料理人生活に戻っていた。そうこうしているうちに、食材選びから店の運営、調理、接客まで全て行いたいと考え始め、自身の店を持ちたいと思うようになった。
やっぱり料理人。「空花」の誕生。
大好きな鎌倉で期間限定の居抜き物件があることを知り、迷わず申し込んだ。「空花」の誕生である。鎌倉散策の合間にほっと一息つけるような店を開いた。
しかし食材の課題がのしかかった。流通の関係上、使える食材が限られ、自身の料理に限界を感じるようになったのだ。例えば東京なら、北海道 の食材がその日のうちに届く。鎌倉だと中一日かかってしまうので、その分鮮度が落ちてしまう。東京は北から南まで日本全国の食材が集まるため、走りから名残まで、食材を使える時期が長いと感じた。
「思い立ったら何でも挑戦します。失敗してもなんとかなる精神」と、念願だった日本料理店を東京虎ノ門で開業した。
凛とした一輪の花
長期的な目標に向けて突き進むというよりは、目の前のことに努力するタイプ、と自身を分析する脇元氏。「思った通りにいかないのが人生ですから」と微笑む素顔は、思い通りにいかないことすらも楽しんでいるように見える。
若い世代が脇元さんのように成功する秘訣を尋ねると、成功しているか分からないけど、と謙虚な前置きをしながらこう語った。「最初の5年くらいはがむしゃらに努力してください。せせこましく考えないこと。どんな選択をしても悩みは出てくるかもしれない。ただ、悩むくらい努力することが大切だと私は思います。これ以上無理という限界まで。性別関係なく若いうちは体力があるので。そして、その瞬間の出会いを大切に」
かんだでの厳しい修業、メニュー開発の仕事を経験し、鎌倉、そして虎ノ門に自身の城を築いた脇元かな子氏。様々な舞台を経た彼女の口から、「女性なのに頑張った。女性だから大変だった」などの言葉は一切ない。この地に立っている理由は、並々ならぬ努力と前向きな姿勢に他ならない。そんな彼女の姿は、青空に向かって勢いよく伸びる、一輪の花に重なった。