扉を開ける前から、飄香の物語は始まっている。通りに立ち、客を迎える熊谷泰代氏の所作は、舞台の幕開けのように特別な体験になることを期待させる。井桁良樹 シェフが描く“現代の宴席”を、言葉と空気で伝える のが彼女の役割である。
「ミシュランガイド東京2026」サービスアワードを受賞したのは、 四川料理店「飄香 (ピャオシャン)」統括マネージャーの熊谷泰代氏。サービスアワードとは、訪れる人を心地良くすることができる、おもてなしに優れたスタッフに授与される賞。プロフェッショナルかつ魅力的であり、レストランでの体験が特別なものになるような接客をする人に授与される。サービスに対する心からの情熱を称える賞である。
受賞の瞬間、ステージ上で落ち着きもってコメントされていた熊谷さん。しかし、実際の彼女は、頭が真っ白になり言葉もうまく出てこなかった。本当に伝えたかったのは、井桁シェフ、そして支えてくれたスタッフと家族への感謝の気持ちだった。
熊谷さんの原点は、若い頃に訪れたフレンチレストランでの体験にある。料理人を志し、調理の専門学校を卒業後、自分が従業員として一流と誇れる店で働きたいと考えていた。アルバイトをしながら、ここだと思える店を探すためにたくさんの店を訪れた。そんな中、神楽坂にあるレストランを訪れたときのこと、若い自分たちにとって、場違いと感じてしまうような高級店でも、サービススタッフの温かい対応や気遣いに緊張がほどけ、料理とサービスを心から堪能することができた。「この店だ」と直感が走り、入門を志願。 当時、女性が厨房に入ることが難しい時代ではあったが微かな期待を胸にした。そこは「ラ・トゥーエル」というフランス料理店で、支配人を務めていた糸澤晃 氏の下でサービスを学び、その奥深さに魅せられるように。
やがて、出産を機に飲食業を離れたものの、ヤクルトレディとして約7年半、人と接する仕事を続けた。信条は「休まない、遅刻しない、常に笑顔」。それが安定感、お客様からすれば安心感につながる。その姿勢は今も変わらない熊谷さんのサービスの礎になっている。再びレストランの世界に戻り、恩師である糸澤氏の紹介で飄香のオープニングスタッフとして参加。井桁シェフとの出会いである。未知の四川料理という新しい挑戦が、熊谷さんの情熱を再び呼び覚ました。
熊谷さんにとってレストランとは、単に食事をする場所ではなく、非日常を味わう、いわば旅行のようなものだという。接客では、空間、雰囲気、食体験、会話のすべてに気を配る。「シェフの料理は思想そのもの。文化や歴史まで含めて届けたい」。四川料理=辛いというイメージを持たれがちだが、それを覆す驚きと感動、味わったことのない体験を伝えるのが使命だという。
四川料理は「24の味付け」と「56の調理法」の組み合わせで、味・香り・食感が立体的に広がる。さらに飄香では、伝統四川料理を今に伝える成都・松雲門派の正統な継承者である井桁シェフによって独自に再構築された料理を供する。熊谷さんは、その一皿ごとの意図を理解し、その本質と背景を過不足のない言葉に変換して体験をつくり出す。初来店の客が緊張しているならば、冗談を交えた会話でリラックスさせ、食事を楽しんでいただくことも心掛けている。「料理説明というより、会話の一部なんです」と彼女は言う。
特に思い入れのある一皿が「肝油海参(ガンヨウハイシェン)」。ナマコと豚レバーを煮込んだ料理である。ナマコ、アワビ、フカヒレの干物は乾貨(かんか)と呼ばれ、中国では古くから高級な贈答品や資産として扱われてきた。こうした素材を使った料理が一皿入るだけで、コース全体の品格が変わると熊谷さんは説明する。「この素晴らしい料理の背景や意味、味わいを皆さんに知ってもらいたいですし、これを目当てに来てくださるお客様がいらしたら本当に嬉しい」と語る。
なぜナマコなのか。ナマコは中国語で「海参(ハイシェン)」、海の人参という意味を持つ。科学が未発達だった何千年も前から滋養の象徴として扱われ、干して熟成させ、さらに時間をかけて戻すことで旨みと力を宿す。井桁シェフは「ただおいしい だけでなく、食べて元気になる料理を」と語る。飄香の料理が、味わいの余韻だけでなく“翌日の感覚”までも語られるように、これが思想の表れ。熊谷さんのこの一皿への思い入れには、シェフの哲学と、手間と時間が生む価値への深い理解がある。そして、その思いを客席にまで届け伝えるのが、彼女の役割である。
井桁シェフは熊谷さんを「お客様を笑顔にさせる天才」と評する。「“おいしかった”より“楽しかった”と帰られるお客様がいるのは、彼女の力です。私が説明するより、彼女が話したほうが印象がいい。伝え方も的確なのです」。宋代の宮廷文化に憧れる井桁シェフが思い描くのは、二胡の音色が流れる空間にて、料理人が包丁一本で驚きを与えた古の宴席。皇帝を喜ばせた宮廷料理人がそうしたように、飄香の客を迎える。その思想を、熊谷さんは感情と言葉に変えて客席へ届ける。料理の翻訳者であり、同時に舞台を支える演出家でもある。「熊谷さんの存在も含めたすべてが飄香のエンターテイメントなのです。」とシェフは語る。
熊谷さんの接客は人を惹きつける魅力がある 。では、サービスの質をどのように維持しているのだろうか。シェフを支えながら複数の店を統括し、従業員を束ねる彼女が目指すのは、自分の分身を作る思いでスタッフを育成すること。一人ひとりと対話を重ね、気持ちに寄り沿い、伝えていく。それが教育の基本だという。「子育てと同じです。信頼関係があってこそ心の温度が伝わる」。若手へのアドバイスは「線を超える」こと。限界を決めつけずにチャレンジしてほしいと願う。
取材を通して見えたのは、シェフの静かな情熱で描く舞台を、温かな言葉と所作で支える 熊谷さん。彼女がもてなす飄香の体験は、料理とサービスが響き合う“現代の宴席”そのものといえる。
Top image: © Hisashi Yoshino / The MICHELIN Guide