97歳の今も調理場に立ち続ける「野田岩 麻布飯倉本店」五代目、金本兼次郎氏。江戸時代から続く老舗を守るだけでなく、時代に応じて新しい挑戦を重ね、人を育ててきた姿勢が称えられ、このたびメンターシェフアワードを受賞した。生涯一職人としての厳しさと、商人としての柔軟さ。その双方を併せ持つ歩みが、次世代へと伝えられている。
父の背中、母の言葉
職人としての厳しさを教えてくれたのは父だった。市場での仕入れ、仕事の所作、決して妥協を許さぬ姿勢。その一方で、母は商人としての視点を持ち、老舗の看板におごらず謙虚であることを説き続けた。更に「人を育てない店、人を使えない店は駄目になる」とも繰り返し伝え、人材育成の大切さを教えた。この二つの教えは、五代目・金本兼次郎氏の歩みにおいて、厳しさと柔軟さという両輪となり、次世代へと受け継がれている。

伝統と革新の歩み
金本兼次郎氏は、時代の変化を前にしても立ち止まることなく、新しい挑戦を積み重ねてきた。一例が、白焼きにキャビアを添え、冷えた白ワインと合わせるという提案。意外性のある組み合わせながら驚くほどの調和を見せ、今も店で供されている。訪れる客に「うなぎの新しい楽しみ方」を伝える一品となった。
また、遠方にも味を届けたいと、昔は珍しかったレトルト商品も開発。更に、日本橋高島屋への出店も決断し、社会の変化に応じて一歩を踏み出した。
こうした革新はいずれも、五代目が受け継いだ職人としての技と、商人としての柔軟な視点があったからこそ実現したものである。

探究と趣味の延長にある挑戦
金本兼次郎氏の人生には、趣味や探究心に支えられたもうひとつの側面がある。これまでフランスへ100回を超えて足を運び、車を自ら運転して各地を巡った。訪ねた先はパリだけでなく、ワイナリーや地方のレストランにとどまらない。シュヴァル・ブランやピエール・ガニェールといった三つ星の名店も訪ね、「フランスは第二の故郷」と語るほどの思い入れを持つ。三つ星店では、料理・空間・サービスが調和した食事に感銘を受け、それを自身の店づくりに活かしてきた。また、80歳になってからも新しい挑戦を重ねた。マッターホルンやヒマラヤに登り、次の景色を見たいという気持ちが力となった。著書「生涯うなぎ職人 二百年続く老舗『野田岩』の心と技」においても80代以降の人生は楽しいと綴っている。
こうした探究心や行動力は、老舗の当主という立場に安住することなく、自らの人生を豊かにし続けてきたことを物語っている。そしてその姿勢は、日々の仕事や人を育てる営みにも、新しい視点をもたらしてきた。

未来を担う料理人に受け継がれる教え
金本兼次郎氏の言葉と実践の核心にあるのは、「人を育てなければ店は続かない」という揺るぎない信念。共同経営者であった母が繰り返し説いた「人を育てない店は駄目になる」という教えを、自らの生涯を通じて実践してきた。金本氏は97歳の今も焼き場に立ち続け、新人の包丁捌きを見守り、若手に声をかける。「串打ち三年、裂き八年、焼き一生」。職人の道は長い。一度習性がつくと治らないため、未経験から教える。「人が育ったから店を出す」。つまり、出店や拡大は育成の結果であり、目的ではないと考える。

その姿勢を裏打ちするのが、職人・商人・経営者の三位一体の視点。
職人としては、自らも「生涯現役」を掲げ、技術を磨き続ける。
商人としては、誠意ある取引と適正価格を守り、新人の舞台として設けた店舗では、利益よりも育成を優先し、「家賃さえ払えれば十分」と語った。
経営者としては教育で店の土台を築き、学びを怠らない姿勢も金本氏の特長。国内外の勉強会や同友会、そしてフランスでの体験を通じて「外の世界を見ることの大切さ」を学び、それを従業員教育にも活かしてきた。一流のレストランに従業員を連れて行き、料理・空間・サービスを体験させるのもその一環である。単なる真似事ではなく「本物を見て、自分の血肉にせよ」という信条が根底にある。

更に、自らもワインや登山などの趣味に打ち込み、人生を楽しむ姿勢を大切にしてきた。 それが人を育てるうえでも欠かせないという信条につながっている。
こうして金本氏の哲学は、「職人として技術を磨き、商人として誠実に商い、経営者として人を育てる」 という三つの側面から成る。それは単に老舗を維持するための知恵ではなく、次世代を導く確かな姿勢となっている。
店を訪れると、大家族のような温かさが伝わってくる。
新人を迎え、根気強く良いところを見出して伸ばすこと。一流に触れさせて成長を促す。人を育ててこそ店が生まれるという考え。そのすべてが、家族のような雰囲気を育んできた。
そんな中、五代目・金本兼次郎氏が焼き場に立つと、場は一転して張りつめる。その背中には職人としての厳しさと、従業員の成長を見守る温かな眼差しの両方が宿っている。

Top Image: © Hisashi Yoshino / Michelin
