レストランの灯りが落ち、厨房の扉が閉まったあと、世界各地の第一線で活躍するシェフたちは思いもよらない世界へと身を投じ、私たちが想像もしないような情熱を注いでいます。街を駆け抜けるスケートボード、個人のアートコレクションのキュレーション、DJとしてのレコードプレイ、さらには何百年も受け継がれてきた日本の能の習得まで。シェフたちの姿からは、創造性は料理だけにとどまらないことが伝わってきます。
一見、料理人の舞台からかけ離れた世界のように見える活動も、単なる趣味にとどまりません。シェフたちの想像力に火をつけ、心身をリフレッシュさせ、次なるガストロノミーの冒険へとつながる源になっているのです。
エイドリアン・チョン・イェン ─ ムエタイ・ボクサー
ソル・キッチン&バー(Sol Kitchen & Bar/1区)
ビブグルマン
ミシュランガイド ハノイ・ホーチミンシティ・ダナン 2025
ホーチミンシティ1区の「ソル・キッチン&バー」で、ラテンアメリカ料理を手がけるマレーシア出身のエイドリアン・チョン・イェン(Adrian Chong Yen)。キッチンを離れると、彼はボクシングのリングで汗を流します。イェンがムエタイを始めたのは4年前。娘が生まれると知ったときからです。
「きっかけは、将来娘にボーイフレンドができたときのことを考えたからですね」と、冗談めかして笑います。「ムエタイは、これまで身につけてきた中でも最高の技術のひとつです。健康維持や目標に集中するうえで間違いなく役立っています。単なる運動ではなく、身につけるべきスキルだと思います。自分を律する心や集中力、先を読む戦略性など、多くのことを教えてくれます。」
彼がとりわけ誇りに思っているのが、「究極のシェフ対決」と呼ぶイベントです。ホーチミンの料理人仲間たちを集め、まずは厨房でそれぞれの料理を仕込み、次にリングへ上がって文字通り本気で打ち合い、そのあと再びキッチンに戻って料理を仕上げる──という、前代未聞のイベントです。交流戦と食事会を兼ねたこのチャリティーイベントでは、およそ10万ドルもの寄付が集まりました。
「ムエタイは、仕事面でも健康面でも、本当に大きな助けになっています。つらいときには、いつもセラピーのように頼りにしてきました。この業界で増えがちな体重をコントロールするうえでも欠かせません。」
Hero image: ©Adrian Chong Yen
デイビッド・ライ ─ 卓球を愛する哲学者肌のシェフ
Neighborhoodネイバーフッド(Neighborhood)
一つ星
ミシュランガイド 香港・マカオ 2025
デイビッド・ライ(David Lai)は、シーフードのスペシャリストとして知られるシェフです。さまざまな食文化からインスピレーションを受け、地元の海の幸を驚きに満ちた一皿へと昇華させる、その自由闊達なスタイルに惹かれる人も多いでしょう。最近では、人気テレビ番組への出演で彼の存在を知った人もいるかもしれません。(右画像:©Wu Jianping)
しかしライには、卓球愛好家というもうひとつの顔があります。この趣味を始めたのは4年前。パンデミックの影響で、テニスコートがソーシャルディスタンス確保のために閉鎖されたことがきっかけでした。いまでは週に3回、地元の卓球場で1時間汗を流してから、近くのコーズウェイベイの魚市場へ向かいます。市場では顔なじみの魚屋たちと会話を交わしながら最良の魚を選び、その日のメニューの着想を得ています。「卓球の時間は、そのあとの仕事に集中するためのスイッチのような、頭をすっきりさせる役割を果たしてくれます。」とライは話します。
「勝ち負けにこだわるタイプではないので、点数を競う試合よりも、フレンドリーにラリーを続けるほうが好きです。そのほうが気楽で、純粋に楽しめますから。卓球が好きなのは、ハードすぎない、ちょうどいい運動になるからです。天候に左右されず、いつでもできるのも魅力ですね。」
こうしたリラックスした趣味であっても、ライの姿勢はどこか創造的で目的意識に満ちています。テニスから卓球に切り替える際、彼はあえて左手でプレーすることを選びました。「テニスの癖を抑えるために思い切ってゼロから左手で始めたところ、自分には合っていました。」
ジョンソン・ウォン ─ アート収集家
コミューナル・テーブル・バイ・ゲン(Communal Table by Gēn)
ビブグルマン
ミシュランガイド クアラルンプール・ペナン 2025
壁にアートを飾るレストランは数多くあります。しかし、シェフ自らが選び抜いたコレクションのある店はごくわずかです。その代表とも言えるモデナの三つ星レストラン「オステリア・フランチェスカーナ(Osteria Francescana)」には、マウリツィオ・カテラン、ダミアン・ハースト、アイ・ウェイウェイ、村上隆といったアーティストの作品が並んでおり、これらのすべてがマッシモとララ・ボットゥーラが選定した幅広いセレクションの一部です。(左画像:©Johnson Wong)
ゲンのシェフ、ジョンソン・ウォン(Johnson Wong)もまた、アートに深い関心を寄せる一人です。『ミシュランガイド クアラルンプール・ペナン 2024』のヤングシェフ賞受賞者でもあるウォンは、2018年に「ゲン」をオープンする1年前からアート収集を始めました。現在も自分自身の情熱を注ぐライフワークだと考えています。
「レストランにどう映えるかというよりも、自分の感情や作品とのつながりを基準に選びます。作品の背景にあるアイデアや想いこそが、最も心を動かす要素なのです。」
現在のコレクションは20〜30点ほどで、その多くはペナンを拠点とする地元のアーティストの作品。フー・ファンチョン、ジョーイ・ウォン、Sumidik、そして観光名所にもなっている壁画を手がけたアーネスト・ザカレビックなどです。「お気に入りは、フー・ファンチョンの『Durian Without Duri』です。ドリアンの表面をなめらかになるまで削り、その横に研磨ベルトを並べて展示した作品です。誰もが何かしらのイメージを持つドリアンから、マレー語で棘を意味するduriを取り去った姿を見るというのは、とてもユニークだと感じました。」(右画像:©Johnson Wong)
ウォンにとって、コミュニティや人とのつながりを語り合うきっかけとなる作品は、『ゲン』の原点にある想いを具現化したものです。「私たちの料理は素材ありきで、地元コミュニティから強い影響を受けます。優れたアートは人の感情を揺さぶりますが、完成度の高い料理もさまざまな感覚に訴えかけ、感情や記憶を呼び起こすことができます。まるで名画のように。」
髙橋拓児 ─ 能に魅せられた料理人
木乃婦
一つ星
ミシュランガイド 京都・大阪 2025
四季の移ろいが味としつらえに映し出される、静かな京都の中心部。老舗「木乃婦」の三代目主人・髙橋拓児氏は、日本料理の技を磨くことに人生を捧げています。一方、厨房の外では、もうひとつの美の世界──能という古典芸能を30年近くにわたって学び続けてきました。
能との出会いは、東京吉兆での修業時代にさかのぼります。創業者・湯木貞一氏のもとで学びながら、大御主人のお伴としてよく歌舞伎を観に行きました。一年間で三十回ほど。舞台で役者が「見え」を切る瞬間や、色彩の使い方など、言葉を超えた表現の世界に強く惹かれていきました。大御主人から「色目をよう見ろよ」と言われた言葉は、いまも心に残っていると言います。歌舞伎を習いたいと思いましたが、お稽古場が見つからず、京都に戻ってから金剛流の能を習い始めました。二十七歳のときです。以来、およそ三十年にわたって、月二回の稽古を続けています。好奇心から始まった稽古は、やがて一生をかけて向き合う修行となりました。謡と仕舞を学び、春秋の発表会に立ち、近年では金剛流師範の免状を得るまでになりました。
能を通して学んだのは、「中庸の美」と「俯瞰的な視野」。髙橋氏は舞台と料理のあいだに深いつながりを見いだしました。
「能の舞台には、神や僧侶、子どもなど、多様な役どころがあります。どの登場人物にも優劣はなく、それぞれの存在のあり方が尊重されています。料理も同じです。魚や野菜など、食材そのものに本来の上下はなく、人間が勝手に序列をつけているだけです。能を学ぶうちに、どんな食材にもその良さを見いだし、光を当てるようになりました。能は場面ごとに表現が大きく切り替わります。静と動、強と弱、緊張と緩和。その切り替えの感覚は、料理を通してお客様一人ひとりに合わせた表現を行うときの感覚と近いと思います」
こうした感性は、いまや料理哲学の核となっています。能を学んだからこそ、常に冷静に、どんな状況にもすぐに没入できるようになり、その姿勢は、料理を通して多様な文化に対応する力にもつながっているという。国内外どのお客様であっても、ベジタリアンやハラール、個人的な嗜好に対して丁寧に向き合います。雲丹の代わりにかぼちゃや赤ピーマンを合わせた胡麻豆腐を考案するなど、見た目も味も妥協せずに仕上げることで、「もどき」料理ではなく、別の美味しさを創り出す挑戦をします。
どんな要望に対しても、決して「ノー」と言いません。長い歴史をもつ寺社のしきたりを尊重しつつ、現代の味覚にも柔軟に寄り添う献立作りにもその姿勢が表れています。
古来より“静の芸術”と称される能。木乃婦で供される一品一品に、その神秘的な美意識が宿っています。見た目の美しさだけでなく、時間や余白までも味わう──ここには、そんな体験があります。
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ソン・シウ ─ カメラを手にしたシェフ
レギューム(Légume)
一つ星
ミシュランガイド ソウル・釜山 2025
ヴィーガンレストランでアジア初のミシュラン一つ星を獲得した「レギューム」。ここでオイスターマッシュルームをまるでステーキのように巧みに仕上げる韓国人シェフのソン・シウ(成時宇)は、厨房を離れると、常にカメラを手にしています。6年前の29歳のときにアナログカメラと出会って以来、すっかり写真に夢中になりました。「時間さえあれば、いつも何かを撮っています。」と彼は言います。(左画像:©Sung Si-woo)
この趣味を厨房には持ち込まないと決めているため、料理の写真は撮りません。「料理写真を撮るのは難しいですね。」と笑います。代わりに、風景や家族との時間、出張先でチームメンバーが見せる自然な姿などを主な被写体にしています。身軽に動けるよう、小型で持ち運びやすいAPS-Cセンサー搭載のカメラを好んで使い、デジタルにはFujifilm X-E4、フィルムにはRollei 35を愛用しています。
「写真の好きなところは、今この瞬間に全身全霊で向き合えることです。」と彼は言います。
とはいえ、写真家としての顔は、ほとんど表には出していません。イベント写真を見せるのはごく親しい家族や友人、スタッフにとどめ、自分のために撮った風景写真は、ひっそりとインスタグラムにアーカイブするだけです。
それでも、この趣味は料理にも反映されています。「写真は、色づかいや構図、フレーミングを通じて、料理へのインスピレーションを与えてくれます。皿をフレームのように捉えると、新しいアイデアが自然と浮かんでくるのです。」(右画像:©MICHELIN)
アイヴァン・ブレム ─ 音に没頭するDJ
ヌーリ(Nouri)
一つ星
ミシュランガイド シンガポール 2025
営業が終わり、最後の皿が片づけられ、ナイフとフォークの触れ合う音も消えた静かな深夜。アイヴァン・ブレム(Ivan Brehm)は、もうひとつのカウンターへと向かいます。ミシュラン一つ星レストラン「ヌーリ」に併設された実験的スペース「アペタイト(Appetite)」では、このシェフが包丁の代わりにレコードを回し、ソースでは音色を重ねていきます。「DJとしては、まだまだ素人ですよ。」と本人は言います。「始めたのは必要に迫られてのことでした。アペタイトにはDJがいないうえに、少し特殊なハイファイシステムが入っていて、DJ向きの設備もありません。できるのはテンポをいじったり、曲をつなげたりするくらいです。」そんな代役として始まったDJは、いつしかビートを合わせ、鍋のスープに熱が広がるように音が空間を満たしていくのを感じ取る、ひとつの儀式へと変わっていきました。
“「音楽と料理は、僕にとってもっとも心が揺さぶられる芸術です。どちらも理屈を通り越して、記憶や感情の深いところに直接届き、日々に意味を与えてくれるのです。」 ─ アイヴァン・ブレム”
ヌーリを音楽で例えるとしたら、何になるか──そう尋ねると、彼は迷いなくこう答えました。「とてもワールドワイドで教養豊か、そして時代の幅が広い。バロック音楽からビギー・スモールズ、エブリシング・バット・ザ・ガール、ジャバテまで、何でもあります。一見ばらばらに聞こえるかもしれませんが、料理と同じようにパターンがあります。そして最終的には、すべてが上手くまとまるのです。」ブレムにとって、音楽は単なるBGM以上の存在であり、体験に不可欠な要素だといいます。「音楽と料理は、僕にとってもっとも感情を揺さぶる芸術。どちらも理屈を通り越して、記憶や感情の深いところに直接届き、日々に意味を与えてくれます。だからこそ、私たちが本来どういう人間なのかという、本質的な部分でつながる手段にもなるのです。誰もが、リズムに合わせて自然に頭を揺らし、メロディーに涙した経験があるはずです。はそんな瞬間に、私たちは皆同じ人間であることを思い出します。音楽と料理は、世界を一つにまとめ、寛容でもう少し幸せな場所にしてくれると思います。」
チョン・チェンファン(マサ) ─ 独学で技を磨いたスケートボーダー
ユー・カポ(Yu Kapo)
二つ星
ミシュランガイド 台湾 2025
二つ星レストラン「ユー・カポ」で料理人としての道を歩み始めたチョン・チェンファン(Chung Cheng-fang、マサ)。中学卒業と同時にこの世界へ飛び込みました。ちょうどその頃、まったく異なる情熱であるエクストリーム系スケートボードにも出会います。それから25年以上、この趣味は彼の人生に寄り添い続けています。
「街で颯爽とスケートボードをしている人たちを見て、自分も絶対にやってみたいと思いました。」と、彼は笑顔で振り返ります。レストランの休憩時間には、台中の市民広場(CMP勤美誠品緑園道)へ向かい、練習に励みました。すべて独学で、週に3〜4日、毎回数時間の練習を続けるほどスケートボードに打ち込みました。早朝勤務の日でも、技を習得するために朝6時に起きて滑り込んだといいます。
こうしてスケートボードは、人生の相棒のような存在になっていきました。オーストラリアでのワーキングホリデーや、かつて二つ星で掲載された「祥雲龍吟」、そして東京での修業時代に至るまで、ボードは常に彼の傍らにあり、新しい文化に馴染む手助けとなってきました。現在多忙を極めるなかでも、週に一度はスケートをする時間を確保しています。店にはいつもボードが置かれていて、仕事帰りやちょっとした用事の合間にも、すぐに滑り出せるようにしています。彼の持ち技は「トレフリップ」と呼ばれるトリック。ボードに飛び乗り、あらゆる方向へスピンさせたのち、ピタリと着地してそのまま滑り続ける大技です。これまでに地域の大会にも出場し、2位に輝いたこともあります。(左画像:©MICHELIN)
「スケートボードのいちばんの魅力は自由なところです。教科書はありません。自分だけのスタイルを磨き、技をつないでオリジナルの流れを作り出し、その喜びを仲間と分かち合えます。」とチョンは言います。冒険心はそれだけにとどまらず、ジェットサーフィンやスキーにも挑戦。自分自身を試し、新しい世界を開く手段として次々とチャレンジを重ねてきました。
スケートボードは、人生や仕事への向き合い方にも彼に大きな影響を与えました。新しい技を覚えるために絶えず自分を追い込み続けるなかで、忍耐力や粘り強さ、一歩ずつ前に進むことの大切さを学んだと言います。「価値あることを成すには時間がかかる──スケートボードは、いつもそれを思い出させてくれます。」
ポンチャーン・トップ・ラッセル ─ コンテンツで業界を照らすシェフ
ミア(Mia)
一つ星
ミシュランガイド タイ 2025
「ミア」を軸に、タイ国内の多彩なプロジェクトを掛け持ちするシェフ、ポンチャーン・トップ・ラッセル(Pongcharn “Top” Russell)。彼は自分の得意とする「表現」に時間を割くことを欠かしません。業界の裏側や語られにくいトピックについても、もっとオープンに話そう──そう励ましてくれた友人の故クリストファー・メニングスの言葉に突き動かされ、2024年にAh Oui ChefのInstagram、YouTube、ポッドキャストをスタートしました。
「Ah Oui Chef」を、誰もがやって来て質問を投げかけ、自分の話をしても批判される心配のない安全な場所にしたい。と彼は話します。「僕自身にとっても、ほとんどセラピーのようなもの。ゲストはみんな、最後にはとても個人的な何かを打ち明けてくれます。この業界の暗い側面は、ときにトラウマになることもあります。とくにシェフやオーナーにとっては。精神的な負担も大きく、その重荷を日々抱えながら生きている。それを、少しでも軽くしたいです。」
彼がもっとも誇りに感じるのは、人々が心を開いてくれる瞬間です。「人前で本音を話す勇気を持ってくれること、そして自分の物語を僕に託してくれること──それを真剣に受け止めています。」なかでも忘れられないのは、かつて一度だけ会ったことのあるシェフから、「師匠がこの世を去った暗い時期に、この番組が灯台のような存在になってくれた」とメッセージをもらったことです。その言葉は、ラッセルの胸を強く打ちました。
こうした対話や物語を通じて彼が目指しているのは、採用や解雇のあり方といった、シェフの間では滅多に語られることのないテーマにも踏み込み、実質的な変化の種を蒔くことです。「まったく意見が合わないゲストが登場したこともあります。それでもお互いの考えを率直に出し合いました。そうしたやりとりをオープンに見せること自体が健全なのだと思います。飲食の世界には、公の場で話すのをためらうセンシティブな話題が本当にたくさんあります。Ah Oui Chefは、この業界へのラブレターです。正直でオープンな対話を生み、さらにその先の対話へとつながっていく、そんな場所でありたいと思っています。」
Written by Pruepat “Maprang” Songtieng in Bangkok, Suma Wakui in Japan, Ethan Lau in Malaysia, Hyo-Won Lee in Seoul, Mikka Wee in Singapore and Hsieh Ming-Ling in Taiwan; introduction and edits by Hsieh Ming-Ling.